嗣希創箱の消閑

小説、落書き、二次創作、etc…。 あなたの暇潰しのお供にどうですか♪ 

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《黒い天使》

《黒い天使》


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 しんしんと降る雪の中。白い化粧をした山林にかこまれた、わずかに開けた雪原に、彼女はいた。
年のころは十代半ばから後半か。雪の白さとは違う温かみと柔らかさを内包する白い肌。整い過ぎて逆に怖いぐらいの美貌。そして、月夜に映える湖畔を思わせる、彼女の腰より下まで伸びた黒髪。
空気すら凍る寒空のもと、少女は雪原に膝をつき、後ろ手に膝立ちというまるで罪人のような格好で、ひとり曇天を睨みつけていた。
 すでに日も落ちようかという時刻。灰色の空を見上げる少女は寒さを感じないのか、彼女が纏うそれは白地の薄い着物のみで、足袋はおろか、肩掛などの防寒着すら着ていないというのに、寒さに震えることはないようだった。
果たして、その透き通るような黒瞳が見つめる先に何があるというのか。
少女は表情ひとつ変えず、ただ一心に空を見上げ続けていた。
「……願いは、聞き届けていただけないのか?」
 と、少女が言葉を発した、その瞬間であった。
 いつからそこに居たのか。少女の四方を囲うように彼らは立っていた。
 少女の視線が空からその男達へと向く。
「それは我らの台詞」
 それは異様な光景だった。
「いまだ主に逆らうのか」
「悔い改めよ」
 少女を囲う男達は、皆同じ姿と格好であり、全く同じ声であった。
 纏う衣服はどこの国のものとも違い、またどこの国のものでもあるという独特のそれ。人が施した物とは思えぬほどに秀麗な装飾と、世界中のありとあらゆる文化を集め内包する衣装は、まるで全ての文化の極みのようだった。
「主に、許しを請いなさい」
 抑揚の無い無機質な声。意思の感じられないのっぺりとした容貌。
 少女を囲う四人の男達が準々に言葉を紡いだのはわかるが、誰がなにを言ったのかが全くわからないという異常な光景。
 言葉を発したはずの男達は皆――口を動かしていなかった。
「……悔い改めるつもりは無い」
 彼らを見回して、少女は――微笑んだ。
「わたしはわたしの想いに忠実なだけ。主の意向に背いたつもりなど――無い!」
 言って少女は立ち上がろうとし、

 ――ギシ!

 響く、金属質の軋み音。
 その音が響くと同時、少女は体を動かすのを止め、顔を僅かに歪めた。
「……!」
 まるで苦痛を無理やり我慢しているような強張った顔を男達に向ける。
 ――ギシギシ。
 ――ギシギシギシ。
まるで見えない鎖に戒められてでもいるかのように。少女が身を僅かに動かすだけでギシギシと軋む音が雪原に響いた。
「――ならば仕方なし」
 しばらくの間、軋み音しか聞こえなかった雪原に、男の無機質な声が響いた。
 それにハッと顔を上げる少女。その瞳が驚愕に見開かれる。
「待って……!」
「まずはその罪を」
 少女の制止など無視して、男達は一斉にそれを――いつの間にか手に下げていた大鎌を頭上に掲げた。
 ギシギシ!
 ギシギシギシ!!
 必死に、焦燥にかられた表情で身を動かす少女。
 しかし彼女は立つことはおろか、罪人の格好を微塵も動かすことすらできずに膝立ちのまま。
「汚れた魂を天へ」
「やめて……!」
 ギシギシ!
 ギシギシ!!
 白地に浮かぶ赤。少女が動き、軋む音が響く度に着物を赤い鮮血が染めて行く。
 ギシギシ!
 ギシギシギシ!
 少女は苦痛に表情を歪める。
 既に少女の着る着物は元からそうであったように赤く変わりつつあった。傷は目に見える所には無かったが、それでもその血の量から少女の傷の多さ深さは知れようというもの。
 ギシギシ!
 ギシギシギシ!
 痛みが無いハズが無い。だけど動きを止めない。止めようとしない。
 ギシギシ!
 ギシギシ!
 その瞳に決意と不安と焦燥を宿し、少女は決して諦めずに、

 ――悔い改めよ。

 振り下ろされる四本の大鎌。
「――――!」

 ――黒い羽根が、白い雪原に舞った。



 1

 ぼやける視界。
 初めに見たのはいつかの曇天とは違う白い天井。
 次第に覚醒していく意識。
 ここがどこで自分が何なのかを思い出す。
 わたしは、そう――この街の都市伝説だ。
 死者の願いを叶える、黒い羽根の天使――通称『黒い天使』。
それが、わたし。
 正確には『堕天使で死神』という変わった存在だが、この街では『黒い天使』という都市伝説がわたしという存在を支える核なので、わたしはわたしをそう呼んでいる。
そしてここは、と思考を外界へと移す。
 独特の薬品匂。白いカーテンやシーツ。清潔であるが殺風景で現実味を削ってしまう部屋――病室。
 ベッドの上で上体を起こし、左右の手のひらを開閉。
 ……大丈夫、痛みは無い。
完治を確認し、わたしは、
「……また、迷惑かけた?」
 シャッとカーテンを開きながら問うた。
ここが病室であり、わたしの記憶が確かなら、ここには――
「また、迷惑かけた」
 対するは、クスクスと笑いを含んでの台詞。
 見れば、予想どおり、カーテンの向こうには椅子に座した青年が笑っていた。
 意地悪ね、とそれに苦笑で返してわたしはベッドから降りた。
 その動きにわたしの長すぎる黒髪がサラリと靡き、危うく自分の髪を踏んでしまいそうになる。っとと、あぶないあぶない。
 わたしは、近ごろはとくに邪魔だなぁと感じることの多くなった黒髪を忌々しげに見つめ、
「君はまったく、手のかかる患者なんだかそうでないんだかわからないね」
 彼の笑い混じりの台詞にそのまま顔を上げた。
 歳は今年で二十四か五だったか。しかし、二十代というのも怪しまれる童顔の彼は、笑みを苦笑へと変えてわたしを見ていた。
 日焼けとは程遠い白い肌。柔和な瞳を囲う楕円形の眼鏡。清潔なワイシャツに長い白衣。
 彼――斎藤(さいとう)有(ゆう)は、ここの病院の医者だった。
それも腕の良い、将来を有望視されているエリート――と本人は言っていたが、わたしにとってはただの意地悪な青年でしかない。
「あなたの患者で無いのは確かですね」
 黒いティーシャツの下に手を入れて、お腹に巻かれた包帯を解きながら辛辣に返すわたし。女の子がはしたない、とかクスクス笑って言う彼をとりあえず無視し、解いた包帯を丸める。
「はい。一応、洗って返しましょうか?」
 丸めた白い包帯を有に手渡しながら問う。
 わたしに病原菌とかが付くことはありえないので、清潔であるのは間違いない包帯。
 だからこれは気持ちの問題。例え今は真っ白であり新品となんら変わらない清潔な状態だろうと、半日前にはわたしの血で真っ赤に染まっていただろう包帯。
彼もこの包帯が赤く濡れたのを見たであろうから、例え今は白かろうと彼がそれを綺麗だと思えないかも知れない。
「良いよ、そのままで」
 そんなわたしの内心を知ってか知らずか――いや、間違いなく知っていて、有は笑みを浮かべたまま、わたしから包帯を受け取った。
 この斎藤有という青年と知り合ったのは今から半年も前。本来、わたしという存在をそんなにも頻繁に、そして長い期間認知し続けるのは難しい。
 また、わたしを見つけ、それでもわたしを忌み嫌わずに接してくれる人間など皆無であり、ここ数百年という間でも彼が初めてだった。
「……何をしているんですか?」
 わたしから包帯を受け取った彼は少しの間手の中のそれを見て、おもむろにそれを自分の顔へと――即座に彼から包帯をむしり取る。
「冗談、冗談」
 わたしが睨むのもどこ吹く風。有はニコニコ顔をまったく崩さず、わたしに手を伸ばした。
 その手に渋々、包帯を乗せる。もちろん、また匂いをかごうなんて失礼なことをしようものならすぐに取り返せるように注意して。
 有はそんなわたしの内心を、やはり知っていて気にしない。少しだけニコニコに苦笑の色が混じったようだが、だからといって彼が謝るようなことは無いし、反省もしてないだろう。
 絶対に。
 斎藤有とはそういう男だ。
「何か食べる?」
 わたしから受け取った包帯をくずかごに放りながら、有。椅子から立ち上がり、白衣のポケットに手を入れた格好で、問うた。
 彼は身長が高い。だから必然的に斜め上となってしまう有の顔を見上げ、わたしは首を左右に振りながら、
「わたしには『食』という概念は不要ですので」
 無駄に爽やかに、綺麗に。言外に『何度目?』という思いを込めて綺麗に微笑み、返す。
「そう。残念」
 肩をすくめて見せる有。その表情は変わることなくニコニコ。
 斎藤有とはそういう男だ。
 心が読めるくせにそういう男だ。



 ――むかし、むかし。
 人が戦と呼ぶ、争いと犠牲の不条理な暴力が横行して当然だった時代に、一人の天使がとある山村へと降りました。
 黒い、長い髪を持つその天使は、主の命により人の争いとそれによる現状を調べに来たのです。
 合戦の舞台からは近いわけでも遠いわけでも無い、いつ戦に巻き込まれてもおかしくない、そんな小さな山村に、天使は一人の村娘として過ごすことにしました。
 その村は平和でした。作物の実りは、悪いなりにも最小限の生活を送れる量は採取でき、年貢と呼ばれる人から人へと捧げられる供物も割と少ないらしく、嘆き悲しむ者よりも日々を楽しく精一杯暮らそうとする者の方が多かったのです。
 それは憎悪と悲哀に満ちたその時代においては尊く、そして恵まれていました。
 その理由の大半が、天使が訪れた村であるからこそであったのですが、当の天使がそれに気付くことなく、ただただ村娘の一人として数年をその村で過ごしました。
 周りの情勢、合戦の度合い、そして世の移り変わりを天使はその村で普通の村人とともに感じ、そして触れ合っていました。
 時には村人とともに嘆き、時には笑い合い、そして励ましあい。その天使はもとから人の情や思いなどを司る、人間寄りの天使であったがために、そうした村人との意志疎通も平然と行えていましたが――それ故に間違いを犯してしまいます。
 村人の一人が天使に恋をしてしまったのです。
 天使とは人の理想の具現。故に村娘に扮した天使の外見は人の理想そのものでした。
 だから村の大半の男たちは、この天使に想いを寄せ、ことあるごとに天使へと求婚していました。
 しかし当然、天使はそれを断り続けます。
 天使は主のみを愛し、崇拝するもの。故に、人と結ばれることをその天使も良しとしなかったからです。
 しかしある日、村人の一人から求婚された時、天使は迷いました。
真剣に、ただ自分を愛してくれる相手を無碍にして良いのかと、天使は迷ってしまいました。
 それが間違いでした。
迷うという事は、他の選択肢を自己の内で認めるという事。天使が人の想いを受け入れても良いという選択肢を肯定してしまうという事。
 その天使は人の想いを司るもの。
 だからでしょう。ある日天使は、一人の男性からの求婚を受け入れてしまいました。
 それが破滅の始まりとも知らずに――。



 2

 初めに目についたのは、頭。
 気が付くと、わたしは彼に背負われていた。
「……また、迷惑かけた?」
 血が足りないのか、呆とする意識のままに、問う。
 力なく揺れる四肢にもお腹にも感覚がないのは幸いか。もしそうでなければ、痛みで発狂していたかも知れない。そんな傷をわたしは負っていた。
「また、迷惑かけた」
 斎藤有は、やはりと言おうか、いつものように笑いを含んだ声で返した。
 朧気だった視界がだんだんと色を認識し始める。
 今は、夜。
 暗い、病院の廊下の光源は、窓から差し込む月の光と非常灯だけ。
 淡く、ある種幻想的ですらあるそこを、わたしは有に背負われて行く。
 それは見るものが見れば幻想ではなくホラーであったろう。
 彼に背負われているわたしは、かろうじて原型を留めているだけの血まみれの少女で。有の着た白衣は、わたしの血で赤く染まり、滴る流血は廊下に赤い滴を落としていく。
 人なら致死量であろう出血と、死に至るであろう傷。引き裂かれた四肢はかろうじて体と繋がり、力無く彼の背に揺られ、顔は見られたものでは無い。
 痛みはとうの昔に麻痺し、流血だってもう出しきってしまったのか止まっていた。
「君のそれは自虐だよね」
 彼はそんなわたしの状態を、気にしない。
 いい加減もう慣れているからか、それともわたしが理由を話したからか。
 わたしが傷だらけになるのも、彼が無駄だとは知りつつ手当てをするのも、これで幾度目であろう。
 有との出会いはこの病院であり、やはりと言おうか当然に、その時のわたしはボロボロであった。
 それはわたしにとってはいつものこと。
 絶望と悲しみを運ぶわたしに与えられる報復。それは人の当然の権利であり、わたしの贖罪だった。
「……いけませんか?」
 わたしを背負ったまま有は肩をすくめて見せる。
「どうだろうね」
 斎藤有は、意地悪で医者のエリートで――少しだけ優しい、わたしの友人。
「……わたしが罪を犯したのは、人に対して、だから」
 だから、これは――贖罪。
 わたしは人の思いと幻想で出来ている。
だからこれは、残された遺族がわたしという存在を憎んだ結果だ。
 人の憎悪はわたしを傷つける。そしてそのことを、わたしは肯定する。
 遺族の嘆き、悲しみが、わたしを傷つけるということを嬉しくすら思う。
「……有はわたしを」
 うらまないの? 
 言葉にはしない台詞。しなくても伝わる思い。
 淡い光の照らす廊下を二人で行く。
 感覚の失せた四肢。ズタズタに裂かれたお腹。それらを巻いている包帯は、既に血の赤から本来の白へと戻りつつあるだろう。
 見えないけどわかる。廊下に点々と続いた血の跡も、おそらくはわたしと遠い方から消えていっているだろう。
 治りつつある傷。再び感じる激痛。それに歯を食いしばって耐える。
 涙で歪んだ視界は、いつしか止まっていた。
「君はこれからもそうして」
 声に笑いが含まれていなかった。
 満月には満たない、中途半端な月のひかりが照らす中。いつしか有は立ち止まっていた。
 そうして――そこで切られた言葉。
 わたしにはその先はわからない。
 彼と違い、他者の心を読めないわたしには。
 切られた言葉のその先を、わたしは待つしかない。
 例え、彼が言うつもりが無くても。
 待つしかない。
 わたしは。
 いつまでも。
 意識が霞の向こうに、溶けて消えた――。



 ――人と交わり過ぎた。
 その事に天使が気付いた頃には、もう手遅れでした。
 天使が人に恋をする。
 自分を愛する者に、天使も想いを寄せるようになってしまいました。
 始めこそ禁じていた逢瀬を、天使は許すようになっていました。
 しまいには、許すのでは無く、天使が求めるようになっていました。
 人を。想いを。天使は求め、そして受け入れました。
 天使とは人に幸福を与えるもの。にも関わらず、天使は自身の幸福を願ってしまいました。
 ただ他者に与え、主に仕えるだけの天使が、人のように願ってしまいました。
 それが、間違い。
 そしてその間違いは、徐々に村を破滅へと導いて行きました。
 村の実りが徐々に減っていきました。
 年貢が徐々に増えていきました。
 大人が減っていきました。
 子供が減っていきました。
 病気が流行りました。
 そして――合戦に巻き込まれてしまいました。
 村人が死にました。
 死んで、死んで、死んでいきました。
 すべてが自分のせい。そのことに天使が気付いたのはその時でした。
 村は恵まれていました。それは天使がいたからでした。
 しかし、人と交わり、人に想いを寄せるようになった天使は、もう天使ではありませんでした。
 墜ちた天使――堕天使。
 天使の白い翼は、いつしか黒く汚れていました――。



 3

 手術を前にして、彼は薄紫色の清潔な専用の服と帽子に着替えた。
同色のマスクと薄い手袋。人が人を治すために着る服。
 斎藤有は優秀な医者だ。だから大変な患者さんを相手にする。
 世界でも有数と言われる名医というのは、救った病気の難しさに比例して高まり、また奇跡と言われる手腕はそれらと戦い抜いて、その経験を積み重ねて培われていくものだ。
 その過程には必然的に多くの死がある。
 たくさんの死に触れ、悲しみと絶望に触れて、そうして初めて一握りの奇跡を起こせるようになる。
 だから優秀な医者は死者と向き合うことが多い。
「……無駄、とは思わないの?」
 今まさに手術台へと向かいかけていた有の背に問う。
 これから彼は重病患者の手術を行うことになっているから、わたしとしてもあまり邪魔をしたくはないのだけど。
 それでも聞いておきたかった。
 何故なら、これから行うその手術は
 ――必ず、失敗するから。
「……わかっているんでしょう?」
 有の手術は失敗し、患者は死んでしまう。
 そのことを彼も知っている。
 なのに、振り返った彼は笑っていた。 マスクや帽子で隠れてはいるがわかる。彼はいつものニコニコ顔でわたしを見ていた。
 呆然と見上げる。どうして彼が笑っているのかがわからない。
 わからない。
 彼がどうしてわたしなんかを――死神なんかを相手に笑いかけてくれるのか。
 わからない。
 わたしという災厄と、どうして彼は普通に接してくれるのか。
「……言ってくれないとわからない」
 うつむく。
 彼に買ってもらった黒いゴシック調のドレスの裾を握りしめながら、唇を噛む。
 わからない。
 死に喚ばれ、死者を送る死神であるわたしに、彼のような医師がどうして笑いかけてくれるのか。
 おかしい。
 わたしという存在は生者にとって忌むべきもののはず。特に人の命を扱う医者にとっては最も忌避すべきもののはずだ。
 なのに、
「君がいるから、安心して手術出来るよ」
 ポン、と。滅菌消毒した手をわたしの頭の上に置きながら有は言った。
 暖かい手。笑いを含んだ声。それはわたしにかけられるには不釣り合いな優しさのかたち。
 だから呆然と顔を上げる。
 言っていることが理解出来ない。
「患者が助からなくても、助けようとした、そのこと自体は無駄にはならない」
 頭に乗せられた手が髪の上を滑っていく。
「そして亡くなった患者は君が救ってくれるだろう?」
 ただ、頭を撫でられて。ただ、見上げる。
 柔和に笑う彼を、呆然と見つめる。
「それに」
 膝を付いて、有が目線を下げる。
 頭に置かれた手はそのままに、彼はわたしを下から見上げるようにして見つめた。
「死は君を喚んでくれるから」
 ニコリと最後に笑って、有は立ち上がった。
 そのまま、彼はわたしに背を向けて手術室へと歩いて行く。
 呆然とそれを見送りながら、わたしはそっと彼が撫でてくれた髪に触れた。
 少しだけ。
 まだ暖かい。
 そんな気がした。



 ――誰の上にも平等に、死は降り注ぎました。
 合戦に巻き込まれた小さな山村。そこに住む無力な村人が生き残れる理由なんて無かったのです。
 元々、働ける人が減りつつあった小さな村でした。だから、なすすべも無かったのです。
 その日、戦による怒涛が村を飲み込んでしまった日に、堕天使は彼らと出会いました。
 死に喚ばれ、死者を送る御遣い――死神。
 運命と寿命を司る彼らは堕天使の住まう村の人々を次々に天へと運んでいきました。
 一切の慈悲無く、機械的に。事務的に。
 平等に。老若男女問わず。
命喪いし魂を天へと導いていきました。
 例外などありません。
 それは堕天使が愛した男も含まれていました。
 だから、堕天使はまた、間違いを犯してしまいました。
 想いの強さが堕天使を堕とす――。



 4

 白い、部屋。
 独特の薬品匂と殺風景なそこは、見慣れた、彼がいつもいる病室。
「……そうしなければ、生きられなかった」
 朝の日が窓から差し込むその部屋で、斎藤有はコーヒーのカップを傾けながら言葉を紡ぐ。
「だから必死で勉強した」
 彼の背中を、血に濡れたベッドに横たわりながら眺める。
 手術が終わり、葬儀やらの手配を終えたのは朝の日も登ろうかとするような時刻。
 本当に長い、星の瞬きが地平の彼方の光に消されていくまでという長い時間を、重病患者の手術に費やしたであろう彼は、さらにわたしの手当てまでしてくれた。
 疲れているだろうはずなのに。
 放っておけば治るというのに。
「他人にとって都合の良い存在……」
 斎藤有とはそういう人間だ。
 ……いや。
 正確にはどういう人間かを計れない人間。それが斎藤有だと言える。
 彼と出会い、彼と話し、交流するようになって半年。わたしは今だに斎藤有を理解出来ない。
 ……いや。
 それも、正確には違う。
「ぼくは――道化」
 言葉に笑いの要素なんて無い。
 だけど、
 ……見えないけど、
 彼が笑っているのがわかる。
 ニコニコ、
 ニコニコ、と。
 それは彼がかぶる仮面。
「誰にもぼくは本当の姿を見せてはいけない」
 わからない。だからこそ、わかる。
 彼が自身を偽り、隠していることが。
「……どうして?」
 問わずにはいられなかった。
 彼が仮面をかぶるのは生きるためだと言う。
 ならば何故、彼はわたしを気にかける?
「君が死神で、ぼくが異質だから」
 振り向いた彼は笑っていた。
 笑顔という仮面をかぶって、わたしを見つめていた。
 そんな彼と瞳を合わせる。
 今だ激痛の中であり四肢に力が入らないながらも力強く見つめる。
 わたしにはもう、言葉なんて必要ない。
「……わかってきたみたいだね」
 伝わる、思い。
 心を読み取るちからを持つ彼を相手にわたしの言葉に意味は無い。
 ただ、思えば良い。
 どうして、と。
 どうしてわたしが死神だとあなたは優しくなるの?
「……疲れたから」
 わたしの思いに応えながら、彼は立ち上がった。
 瞳に苦笑の色を乗せて、彼は笑う。
 わたしに歩み寄りながら、その間も瞳を離すことなく笑い続ける。
 その瞳に問う。何に、と。
「欺き、生きることに」
 死にたいの?
「うん」
 殺して欲しいの?
「……うん」
 膝を折り、腰を下として目線を合わせる有。
 対してわたしは、
「……うらやましいな」
 微笑んで返す。
 痛みが引いた。だから無理矢理に体を起こす。
 サラリと流れる長い黒髪を後ろへとすきながら、言葉を心の内で次ぐ。
 ――勘違いをしないで、人間。
 上体を起こし、白いベッドに腰掛ける。
 ――わたしたち死神は死を運ぶのでは無い。
 巻かれた、純白の包帯を解く。
 ――死を与えるのはわたしでは無い。
 しゅるしゅると解かれていく白。あとに残るのはぼろとなってしまった黒いドレスと黒い髪と、そして、
 ――勘違いしないで、人間。
「……死にたければ死ねば良い」
 ――死神は人を殺さない。
「殺されたければ、殺されてしまえば良い」
 ――死がわたしを喚び、死神は死者を送る。
「生きるのに疲れた?」
 黒い羽根が室内を舞った。
「……ふざけるなよ、人間」
 何百年かぶりのちからの発現。
 わたしの死神として以外の姿。それを彼の瞳越しに見つめる。
 背においし二対の翼。
 黒き堕天使の翼。
 咎人の、翼。
「話していなかったか?」
 冷笑を浮かべて斎藤有を見る。
 さすがと言おうか。彼はまったく表情を変えずにわたしを見返して、
「それはこちらの台詞だよ」
 笑みを――消した。
「言ったよね? ぼくは他者の思考を読むことが出来るって」
 笑みを消して、笑う。それは今までとは明らかに違う笑み。他者に自分の思いを読ませぬための作り笑いではない、もっと純粋な――
「え……?」
 頭を撫でられた。
 思わず、キョトンとして彼を見つめる。
 斎藤有は笑っていた。いつものそれとは違う、どこまでも自然な顔で笑っていた。
 堕天使のわたしを見つめて、彼は素直に笑う。
 純粋に。
 道化では無く、斎藤有として、笑う。
「ぼくを相手に脅しは利かない」
 黒い羽根が舞う病室で堕天使に笑う異端者。
 人の思考を読める、人の想いを覗ける青年。
 意地悪で優しい、わたしの初めての友達。
「ぼくがどうして君にぼくの事を話したかわかるかい?」
 彼の暖かい手がわたしの髪の上をすべる。
 声に、行為に笑いも偽りもなく。
 どこまでも綺麗な瞳で、彼はわたしを見つめる。
「不公平かな、と思ったから」
 呆、と彼の瞳を見つめ返す。
 混乱しているのか。それとも貧血がまだ治っていなかったのか。
 思考がまとまらない。視野が狭まる。
 わたしの瞳には彼しか映らない。
 その瞳に吸い込まれるように。
 想いを覗く邪眼に魅入る。
「ぼくが他人の心を覗けるのは理解しているみたいだけど」
 さらさら、と彼の手が髪をすく。
 暖かい。
 気持ちいい。
 呆とする。
「ぼくが寝ている人の夢や記憶まで覗ける、っていうのには思い至らなかったみたいだね」
 優しい瞳。
 優しい声。
 こと、ここに至ってわたしはやっと理解した。
 ……そうか。
 あなたは始めから理解してくれてたんだ。
 わたしの想いを。
 わたしの過去を。
 わたしの願いを。
 理解して、それでも尚わたしに付き合ってくれたんだ。
 死神であるわたしを忌避せず、
 堕天使であるわたしを畏怖せず、
 あなたはわたしを容認してくれるんだ。
「人を愛し、神に罰を与えられた堕天使」
 遠い、過去の話。
 遠い、過去の記憶。
 人と交わり、人に災いを与えるように変じてしまった堕天使の末路。
「君が死神になったわけを、ぼくは知っている」
 彼の言葉に、
 涙が頬を伝って落ちた――。



 ――ことのすべてを、愛した男に話しました。
 自分のことを。
 村のことを。
 そしてこれからすぐに男が死んでしまうことを。
 堕天使は男に話し、男は堕天使を――殴りつけました。
 どうして黙っていたんだ! ――頬を拳で。
 何故、みんなを騙した! ――腹部に蹴りを。
 お前のせいだ! ――髪を掴みあげて。
 お前がみんなを殺した! ――堕天使の首を両手で掴み。
 お前さえ現れなければ! ――飛んで来た矢が男を射抜いた。
 死にたくない……! ――倒れる男が堕天使を見つめて。
 死に、たく……なぃ……! ――堕天使は彼の願いを。
 聞きました。
 叶えて、逃げました。
 死神から。
 主から。
 その身に男の魂を宿して、堕天使は逃げました。
 運命を、敵に回して――。



 5

 街をいく。
 ここ最近は病院から出なかったわたしと有が、今日は連れ立って歩いていた。
 人の息も白む空気の中で、わたしは特に寒いわけではないが黒いドレスの上に同色のロングコートを羽織った格好をし、久しぶりの外の世界をキョロキョロと見回していた。
 その横を白いコートとスラックスの有が歩く。
 わたしとは対象的な白い格好の彼は、どうやら人の目を引くほどに整った容姿らしく、すれ違う女の人は時折振り返って彼を見ていた。
 それが、少しだけ誇らしい。
 そんなかっこいい男の人とわたしは連れ立って歩いているのだから。
 例えわたしを――普通の人が見えないとしても。
「……いつ見ても違和感があるよね」
 彼が苦笑を浮かべてわたしに囁いた。
 それにわたしも苦笑で返す。
 普通の――死に縁遠い人にわたしは知覚されない。
 だから、わたしをすり抜けて歩き去る人間がいても不思議は無い。
 幾人もの人がわたしを透けて行く。
 誰もわたしに気付かない。
 見えないし、触れられない。
 わたしは人の幻想だから。人が描いた想像に主が形を与えただけの存在だから。
 わたしがわたしであるために人の幻想を――人の理想と偶像を借りている。
 天使は姿を持たない概念体だ。
 人や生物の幻想に形を与えた思いの集合体。
 特にわたしは、もとは人の思念を司る天使である。『思い』という概念を具現化したわたしは、人の心そのもので出来ていると言っても過言ではない。
 だから、普通の人にわたしは見えない。普通の人が他人の心を見れないように、わたしという『心』そのものの存在を知覚出来るはずが無い。
 だけど、
「…………」
 彼の手を、握る。
 繋ぐ。
 触れる。
 わたしは『心』で出来ているから。
 触れたい。そう思えば触れられる。
 有がわたしを見て、笑う。
 心を見るちからを持つ彼はわたしを知覚出来る。
 知覚出来る人間は触れられる。触れたいと思えばわたしに触れられる。
「…………」
 わたしの手を有が握りしめる。
 暖かい手。
 天使は温度を知覚出来ない。だからわたしが感じている暖かさはきっと、彼の思いだ。
 わたしが忘れていた、人の暖かさ。
 遠い日に失った、人の温もり。
「……はずかしい、な」
 はにかむように、笑う。
 有にわたしの想いが読まれている。わたしの気持ちを覗かれている。
 この罪深き穢れた天使のすべてを、彼は見つめている。
 人を愛し、主に罰を与えられた堕天使を見つめている。
 それがどうしようもなく――
「――『嬉しい』?」
 意地悪な、この人への想い。
 ニコニコと、いつの間にか自然に笑うようになった彼への想い。
「いけない?」
 クスクスと笑う。
 もう隠しても意味は無い。彼に対して隠しごとなんて出来ない。
 この身は『思い』で出来ている。
 だから、誰にも見えない。
 だから、誰にも触れられない。
 だから、あなただけで良い。
「……君は単純だね」
 呆れたように、笑う彼。それにわたしは意地悪く、いつかの彼のように笑って、言葉を返す。
「知らなかった? 天使は純真無垢で、純粋で、単純に出来てるんだよ?」
 繋いだ手に、抱き付く。
 触れたい。あなたの暖かさに触れていたい。
 ……寒いから。
 あの雪の降る日に、あの人を失ってからずっと。
 ひとりは寒い。
 誰かに触れていないと凍えてしまう。
 自分の罪に凍ってしまう。
「……だめ、かな?」
 頼ってしまう。
 すがって、しまう。
 あなたの優しさに。あなたの温もりに。
 わたしはどうしようもなく惹かれてしまう。
 ……だめ、かな?
 あなたと一緒にいたいと思ってはだめかな……?
 彼を見上げて、彼の瞳を見つめて、思う。
 想う。
「……そっか」
 彼は笑顔で、
 優しい微笑みを浮かべて、



「――やはり、改心せぬか」



 彼の顔で、彼の声で、いつかの天使が無機質に言の葉を紡いだ――。



 6

 ――堕天使の逃避行はすぐに終わりを告げます。
 雪の降る、白い大地で堕天使はついに捕まってしまいました――。



「……ラグエル」
 忘れもしない。
 あの、遠き雪の日に彼を奪ったこの大天使を、忘れるわけが無い。
「それは貴様の咎であろう」
 有の声で無機質に告げるラグエルをわたしは睨みつける。
 ……なるほど、そういうことか。
 理解した。どうして彼が他者の思いを読めるのかをようやく。
 理解した。どうして彼の中にラグエルがいるのかを。
「……わたしのせいか」
 ギリ、と歯を食いしばって睨む。
 ……許さない。この天使だけは、絶対に。
 許さない。許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さ

「――悔い改めよ」

 戒めがわたしを縛る。
 躯を。魂を。ちからを。縛り、戒めるクサリ。
 ギシギシ!
 ギシギシ!
「――何を、悔いろと言うのか……?」
 ギシギシ!
 ギシギシギシ!
 血を滴らせ、
 歯を食いしばって、
 堪える。
 いや……堪えるのではなく――
「っ!?」
 強引に、
 痛みを無視して、
 本気で、
 笑顔で、
「わたしは……間違ってなど、いない!」
 抗う!
 抗う!
 抗う!!
「……何故、抗う? 何故、抗える!?」
 ――決まっている。
 ギシギシ!
 ――あなたが許せないからに、決まってる!
 ギシギシ!
「理解出来ぬな」
 ……えぇ、そうでしょうとも。
「主に死神という形を与えてもらいながら、なぜ逆らう!?」
 ……逆らっているのではない。
 わたしは自分の意志を貫いているだけ!
「自分の……意志……?」
 呆然とした顔をするラグエルに、わたしを笑みを向ける。
 あなたにはわからないでしょう。主に仕え、主の意をこなすだけのあなた達天使には。
 決して!
「――忘れたか、ラグエル」
 ギシギシ!
 ギシギシギシ!
 ギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシギシ!!
「!」
 わたし達天使が何によって出来ているのかを忘れたか?
 わたし達天使が人の幻想によって作られていることを忘れたか!
 ――痛みを無視する。
 ラグエル。『神の友』の名を持つ、同族の天使を見張り、裁く、大天使よ。
 ――束縛を無視する。
 忘れたか?
 わたし達天使は人の思想、偶像、理想を、格として存在する。
「そして、知名度によって格が決まる」
 多くの人が知っていれば知っているほど――各個たる属性を持っていればいるほど、わたし達のちからは強くなる。
 だから、あの雪の日、わたしはあなたに屈した。
「……主に聞いていなかったか? ラグエル」
 血の滴るこの身を縛るものは、もはや――何もない!
 痛みも、
 戒めも、
 運命も、
 縛れない!
 わたしの思いを止められない。止めさせない!
「忘れたか、ラグエル」
 ――ちからを解放する。
「このわたしの真名を」
 ――六対十二枚の黒翼を、解放する。
「忘れたか! 大天使ラグエル!!」
 ちからが、溢れる。それと同時に傷が癒える。
 呆然とわたしを見つめ続けるラグエルを嘲笑で見つめて――クサリを、引きちぎる。
 ……覚えていたみたいだね、ラグエル。
 わたしは『思い』を司る天使。
 いや――わたしは、『想い』を司る堕天使!
「そうか……我を媒体にして顕現するか」
 無機質な台詞に、ニヤリと、誰かさんのように笑う。
「真名を消されたわたしがあなたよりちからがあるはずは無い」
 例え、堕天使となる前が天使の階級でトップクラスだったとしても。
 わたし達天使は知名度で優劣が決まる。
 いかに主の意向に報い、人を助け有名となったかでわたし達の格が決まる。
 だから、昔はラグエルに屈した。
 主に真名を消され、堕天使の属性に無理矢理死神という属性までも刻まれてしまったから。
「堕天使も、死神も、真名がなければ幻想は偶像へと昇華しない」
 名無しのものに個性など無く、
 個性無きものにちからたど無く、
 ちから無きものに知名度など無く、
 知名度無きものに存在理由など無い。
「だから、消えてしまいかけた」
 曖昧模糊なる幻想はわたしというアイデンティティを消してしまう。
 そうなれば天使はおしまいだ。だから、努力した。
 すべてはこの日のために。
 名前が無いことを個性に。
 黒き翼を記号に。
 死神という役割を伝説に。
 一歩、ラグエルへと近付く。
「この街には『黒い天使』という都市伝説がある」
 わたしがつくった、わたしの話。
 わたしがわたしであるための、わたしの話。
「あなたのように、裏付けのない諸説は数あれど、明確な記録の少ない存在ではない」
 この日のために準備してきた。
 ラグエル。あなたと再び出会い、あなたを否定するためだけに存在理由をつくり続けた。
 だから、わたしはあなたより格上だ。
 少なくとも、この日、この街でならわたしの方が有名だ!
 都市伝説を依代に、あなたの記憶に刻まれたわたしの真名を媒体に。
 今、わたしは過去の自分のちからを解放する。
 智天使だった時のちからを、開放する!
「ラグエル。わたしはあなたを全力で――」
 六対十二枚の黒翼をはためかせて、
 ラグエルへと右手をかざして、
 笑顔で、
「――否定する」



 ――光がはじけた。
 そしてそれが、彼女の思いを読み取った最後だった。



 7

 目眩がした。
 視界が明滅し、意識が遠退きかけ――

 ……有。

 ――彼女の声で、倒れそうになるのをどうにかこらえられた。
 力の入らない体を、壁に寄りかからせるようにして持ち上げ、辺りを見回す。
「――っ」
 絶句した。
 彼女が消えかけていた。
「……そうか!」
 ラグエルが消えたからか。
 だから、ぼくのちからも消えつつあるのか!
 彼女は人の心の結晶だ。だから心を読めない人間に彼女を知覚することは出来ない。
 愕然と、した。
 彼女の向こう側――ぼくに奇異の視線を向けて歩いていく街の人達を見て、たまらなく胸が痛んだ。
 ――……やっぱり、わたしが見えないの?
 寂しげに笑う彼女。それにぼくは、どうしようも無く狼狽した。
「見えるさ。見えているさ!」
 触ろうとして彼女に手を伸ばして――後悔した。
 ぼくの手は、彼女を透けてしまった。
 透けて、しまった。
 触れ、なかった。 
 ――そっか……やっぱり、あなたはラグエルからちからを借りてたんだ……。
 段々と朧気になる彼女。段々と小さくなる声。
 まずい。このままじゃ、彼女を完全に見失ってしまう!
 ――……じゃあ、……おわかれ……有……さようなら……。
 どうしよう。どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう!
 心を読めなくなったぼくでは彼女を見つけられない。彼女に触れられない。彼女をひとりにしてしまう!
 ――……さいごに……きもち……わたし……。
 消えてしまう。離れてしまう。
 彼女が、いなくなる。
 彼女が、
 ――……有……。
 笑いながら、
 泣きながら、
 ――……あなたが……。
 背景を透かして、
 とても小さな声で、
 ――…………すき……。
 彼女の顔がぼくと重なりかけて――消えた。
 完全に。
 ぼくの目の前で。
 消えた。
 消えて、しまった。
「…………さない」
 うつむく。
 力の入らない体を震わせて、横を向く。
 靴やバッグを持つマネキン。それを外と隔てる透明なガラス。
 睨む。
 ガラスに映る、自分を。
 初めて見る、今にも泣きそうな男を。
 睨む。
 否定する。
 全力で。
「……許さない」
 自分自身を、許さない。
 否定する。
 彼の大天使と契約した自分を、否定する。
 彼女を傷付けた大天使を、許さない。
 彼女を苦しめた運命を、許さない。
 彼女を泣かした自分の無力を、許さない。
 許さない。
 許さない!
「……聞こえているかい?」
 笑顔で、呟く。
 まだ近くにいるだろう彼女に、呟く。
 懺悔する。
「ぼくは君が――」
 ガシャン、と。ガラスを拳で割る。
 道行く人々がギョッとしたように振り向くが、気にしない。
 気にしない。
 他人に媚びへつらうのはやめた。
 他人に必要とされたい。そう願うのをやめた。
 道化をやめた。
 そうさ。もう誰かの顔色を伺い、自分を偽る必要なんて無いんだ!
 ――ガシャン!
 もう一度、本気でガラスを打つ。
 ――ガシャン!
 否定する。
 世界を、否定する。
 ああ、そうさ。否定するさ。
 惜しくない。他人のことなんてどうでも良い!
 そうさ。ぼくも、他には何もいらな――
「――やめて!」
 制止の声に、笑みを浮かべて、
 ぼくは拳を、
 砕けて、尖ったガラス片に――
「ぼくは君が――好きだ!」
 降り下ろす!

 ――血が吹き出た。
 致命傷、だった。


 ――捕まった堕天使に神様は罰を与えました。
 堕天使から名前をとってしまったのです。そして死んだ人の魂を天井へ運ぶ死神という役割を堕天使に与えました。
 そうして堕天使は死神になりました。
 死んだ人の魂を運ぶ死神に。
 そしていつしか、人を愛する堕天使は死んだ人の願いを叶えるようになりました。
 だから『黒い天使』に出会ったら願いなさい。最初で最後の奇跡を、きっと見せてくれるから。
 『黒い天使』はきっと、叶えてくれるから――。



 ざわめく周りの人を無視して、ぼくは彼女を見た。
 黒い翼を持つ死神。都市伝説の一つ、『黒い天使』。
 長い黒髪の、
 黒いゴシックドレスを着た、
 黒いコートの、
 黒い翼の、
「……ばか!」
 涙に顔を歪めた、幼い容姿の彼女を、見た。
 苦笑する。
 やっぱり、近くにいたんだね。
「ばか! 有。あなたはばか! 大ばか!」
 ぽかぽかと殴る。
 ぼくの腕の中で、彼女は泣きながら殴る。
 殴る。
 触れる。
 触れられる。
 横を見れば、冷たくなった自分。斎藤有の――死体。
「……ぼくは捨て子なんだ」
 言いながら、抱きしめる。
 泣く少女を、抱きしめる。
「だから、ぼくは自分に自信が持てなかった」
 懺悔する。
 神でもなく、
 天使でもなく、
 聖職者ですらない彼女に、懺悔する。
「引き取ってもらってからは、特にそうだった……」
 いつまた捨てられるのかとビクついてた。
 捨てられたくない。
 嫌われたくない。
 必要とされなければならない。
 そんな時に彼の大天使がぼくの前に現れ、そして――ぼくはラグエルと契約した。
「君がラグエルによって顕現したように」
 ラグエルも君を依代にして顕現化した。
「え……?」
 ラグエルは諸説こそ多いが、そこに確立された姿というものがない曖昧な存在だった。
「だから、君の印象という強い幻想を求めた」
 ぼくの運命はいずれ君と交わる。
 だからラグエルはぼくにちからを貸す代わりに君との邂逅を求めた。
「ラグエルは消されても良かったんだろう」
 本人に意志というものがほとんど無かったから勝手な思い込みだけど。
 ラグエルはきっと自分自身になりたかったんじゃないかと思う。
 曖昧模糊な自分を統一して、明確な存在になりたかったんじゃないかな。
 神の意志の代行者である天使が持った、初めての希望。
 自分の意志を確立し、自身を確立した堕天使をきっと、
「君を羨んでたんじゃないかな」
 泣きぬれた少女の顔を見下ろして、笑う。
「だから、ラグエルのために泣く必要は無いよ」
 にこりと笑う。
 素直に、この優し過ぎる堕天使に笑いかける。
 格上の思念体に否定されたものは消滅する。
 とは言え、ラグエルはそれこそ大量の諸説を持つ曖昧なる天使。一つの型を失ったとしても完全に消滅することは無い。
 だから今回消滅したのは彼女が長年求めた敵――そういう型をはめられたラグエルだけだ。
「……あんな天使のために泣いているのではありません」
 ぼくを睨む彼女に、そう、とだけ返して笑う。
「わたしはあなたが死んでしまったことを悲しんでいるだけです」
 今は霊体であるぼく。
 ガラス片によって動脈をズタズタに引き裂いて絶命した、斎藤有を指差しながら彼女は言う。
「疲れたから死ぬなんてだめ! せっかく、わたしがラグエルを消してあげたのに!」
 ……気付いていたのか。
 ぼくが人の醜い本心を見過ぎて、生きることに絶望しかけていたことに。
「だって」
「だってじゃありません! あなたはばかです! そんなことをしなくてもわたしはあなたと一緒にいます!」
 ……苦笑。
 違和感が確信へと変わった。
「……もしかして、君――ぼくの心が読める?」
「あ」
 しまった、という顔をして横を向く彼女。
 ……なるほど。
 今のぼくは幽霊だからか、死神であり天使である彼女とは言葉をかえさずに話せるようだ。
 なら、話は早い。早速、ぼくの願いを叶えてくれ――『黒い天使』。
「……だけど」
 彼女の頬を流れる涙を拭って、笑う。
 笑う。
「……良いの?」
 ああ、良いよ。
 さぁ、願いを叶えてくれ『黒い天使』。
 ぼくの願いを。
 ぼくの、『君の願いを叶えたい』という願いを。
「……なにを、願う?」
 笑って訊く。
「……それ、立場が逆」
 瞳を閉ざす彼女に、ぼくは――



 8

 ――幾年をまたいだか。
「……おなか、すいた」
 ビルに腰掛け、夜風に髪を流しながら彼女は呟いた。
「おなかすいたよ、有」
 月と星の光瞬く空の下で、ビルのふちで足をぶらぶらと振りながら彼女は言葉を紡ぐ。
 ……空腹感なんて概念、君にはないだろう?
 そう思い、今はない顔で苦笑する幻想を抱く。
「……言ってみただけ」
 ため息を吐き出し、頬杖をついて街を睥睨する彼女。
 ……暇人。
 クスクスと笑う。
 笑う、幻想を抱く。
「意地悪ね」
 彼女の肩に立てかけられた黒い大鎌。死神という幻想を媒介にし顕現化している彼女の手に、まるで付随する形で顕現する死の幻想――それが大鎌であり『ぼく』だ。
 彼女の望み。それが顕現化したのがぼくという大鎌だ。
「あんまり意地悪ばかり言ってると捨てちゃうよ?」
 ぼくを片手で持ち上げ、ビルから落とすようにして持つ彼女。
 ニヤリと、いつかの誰かのような意地の悪い笑みを浮かべて、ぼくをヒラヒラと振る。
 ……うわ、悪魔だ。こんな所から落ちたら幻想が砕けるよ?
「そう、そう。砕けて消滅しちゃうね、有」
 勝ち誇ったように笑う彼女。
 ……まぁ、この泣き虫で寂しがり屋で天然で頑固で落ちこぼれの死神にそんな度胸はないだろうけど、『わぁ! やめろやめろ!』と少し慌てたように幻想する。
「…………」
 って、落としたぁああああああ!?
 あっ。もしかしてすべて思考を読まれてたかな?
 幻想のくせに律儀に重力に従うぼくは、空の上から地面へと落ちていく。
 ぼく自身ではなにも出来ないから、下手したら本当に消滅しかねない。
 だけど、
「……ばか」
 黒い、二枚の翼をはためかせてぼくを追って来てくれる君がいるから、
 ぼくを必要とし、ぼくを想ってくれる君がいるから、
 ぼくは大丈夫だ。
「有のばか」
 ぼくを空中で掴み止め、そのまま空を行く彼女に笑顔を向ける。
 あなたとずっと一緒にいたい。
 そう願った君が、ぼくは好きだから。
 ……好きだよ、『黒い天使』。
「……ばか」
 赤い顔を前に向けて、堕天使は夜空を飛ぶ。
 その手にぼくを抱えて。人の『想い』を司る、都市伝説が。
 『黒い天使』は死者を救う。
「……わたしだって」
 ……え? なんか言った?
「な、何にも言って無い!」

 ――ぼく達は永遠をいく。
 君と、ずっと、ともに。
 幻想と、ともに――。
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